『両立思考』の解説全文②経営学におけるパラドックス研究のこれから
また、本記事は後編です。前編はこちらの記事からお読みいただけます。
日本企業の課題感から見える
両立思考の意義とは
前編では、アカデミックな視点でパラドックス研究の歴史や位置づけを見てきた。
後編では実務家視点で、日本企業をとりまく課題からパラドックスを理解する必要性や両立思考の有用性について述べたい。
さて、最近、現場でよく耳にする経営の組織課題は以下のようなものである。
中長期の戦略としてESG経営やパーパス経営を掲げ、さまざまな施策に取り組んでいる。一方、現場は短期の売上さえあげればよいという意識から脱却しきれておらず、戦略の意図が実現できているとは言えない。
企業と組織の関係性がこれまでの終身雇用による「囲い込み」から「選び選ばれる関係へ」へ変わるということが政財界の各方面から発信され、組織と個人、あわせて上司と部下の関係性がフラットに近づいている。しかし一方、これまでの上下関係がはっきりしていた時代の指揮命令型のマネジメントしか知らないため、管理職が機能不全に陥っている。
実はこれらの課題の背景には、「パラドックス(同時に存在し、長時間持続する、矛盾していながらも相互に依存する要素)に、両立思考ではなく択一思考で対応している」という共通のパターンがある。
1つ目の課題であれば、「短期(売上)と中長期(パーパスなど)」、2つ目であれば「管理と柔軟性」や「全体(組織)と部分(個人)」というパラドックスが潜んでいる。
これらの両極は、どちらも組織にとって必要な要素であり、両立する必要がある。それにも関わらず、リーダーが択一思考によって短期、管理、全体を選択してしまっている、もしくはそれ以外のやり方がわからないために課題が解決できていないと見立てることができる。
両立思考で両方を大事にすれば問題は解決するのか?
では、両立思考でこれらを両方大事にするべきということをリーダーだけに伝えればそれで解決するかというと、実はそんな単純な話ではない。
多くのリーダーが置かれているのは、より上位の経営陣やステークホルダーから短・中長期織り交ぜた複数の目標の同時達成、つまり両立が求められる。
その一方で、部下からは「残業時間にも制約があり、どれを優先するのか決めてほしい。決めるのはリーダーの仕事」と択一を迫られる、板挟みの状況である。そこにさらに加えて、「自分の要望やキャリアも尊重してほしい。そうでなければ退職する」という、難題まで突き付けられているのである。
こんな状況であれば、パラドックスをどう両立するかに向き合うより、シンプルに択一の答えを出してしまう。不安な状況から自身や周囲を解放したい衝動に駆られるのは無理もない。しかもそういう時は、たいてい短期的で、わかりやすく、これまで慣れ親しんだ、つまり今までの問題が繰り返されるような選択肢を選んでしまうだろう。
もしくは日本企業によくある「本音と建前」を使い分けることによって、パラドックスに正面から向き合わずに、両立というよりも中途半端な妥協に甘んじてしまうことも多い。
ここで賢明な読者の方であればお気づきだと思うが、この状況はリーダーだけが創り出しているのではない。部下からリーダーへ択一思考を強いることによって創り出されているとも言える。
もし部下が「どうしたら両立できるかをリーダーと一緒に考える」「リーダーが決める時もあれば、自分が提言して決めることがあってもよい」という両立思考を持っていれば、状況は変わりうるだろう。
リーダーだけが対象で良いのか?全員が両立思考をするべきか?
本書の中でも、全員が両立思考をするべきかという問いは扱われている。そこでは必ずしも全員が両立思考をする必要はなく、その割合は状況によって異なるという結論になっている。
しかし、日本企業は同調圧力が強いために、リーダーに追従することを求められる雰囲気が醸成されやすい。かつ「どちらが正しいのかを決めたがる」という正解志向とも言うべき択一思考に囚われがちな傾向もある。それらが相まって先述のようなリーダーを択一思考にがんじがらめにするような状況が創られやすいのではないだろうか。
日本企業で最近よく耳にする組織課題の解決策としてパラドックスの認識と両立思考の獲得は大いに役立つ。加えてそれはリーダーだけを対象とするのでなく、組織に広く共通言語として浸透させることがカギになるのではないか。
ビジネスの現場における、実践のポイントや
注意点
ここからは、この本の実践に用いる際のポイントについて解説していきたい。
まずはもちろん書かれている事例を真似てみるということもあるが、そもそもパラドックスやそこへの対応はそれぞれの企業の固有の文脈と深く紐づいているので、事例で示されている打ち手がそのまま自社でも使えるとは限らない。
そこで、具体的には以下のような実践をお勧めしたい。
(1)課題の背後にあるパラドックスを認識するため、エスノグラフィーを行ってみる
(2)ABCDシステムを活用し、両立の問いを立てる
(3)組織で対話を通じてパラドックスの認識や両立の問いを共有する
(4) パラドックス・マインドセット関連尺度を用いて組織の状態を見立てながら試行錯誤し、両立思考を組織の中に根付かせていく
上記には監訳者が運営している「パラドキシカル・リーダーシップ養成講座」の内容も含むため、本文中に登場していない言葉もあるが、補足しながら説明していきたい。
(1)課題の背後にあるパラドックスを認識するため、
エスノグラフィーを行ってみる
エスノグラフィーとは、文化人類学などで使われる「現場を内側から理解するための調査、研究手法」のことである。異文化研究において暗黙の前提やパターンを明らかにすることを目的に用いられることが多かったが、昨今、そこから得られる深いインサイトを商品開発やマーケティングにも応用することを目的に、文化人類学者を採用したり、その知見を活用する企業が増えている。
その代表的な手法がフィールドワークである。フィールドワークにおいて研究者は、参与観察、インタビューなどの方法でフィールドノートを書いていくのだが、その作成において重要なのは、「探索したことすべて(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚etc. )を描写し、いかに読者にその現場にいるかのような感覚にさせられるか」を意識して書くことであり、これを「厚い記述」と呼ぶ。
厚い記述をするメリットとしては、観察者を観察に集中させるだけでなく、後で読み返した時にその場では気づいていなかった新たな視点を発見できることである。これは、知らず知らずのうちに囚われていた自文化の視点から抜け出す瞬間である。
このことが、見えていなかった課題の裏側のパラドックスを明らかにすることに大いに役立つ。
パラドックスには論理的なものだけでなく、立場や価値観の違いによって生じる社会構成的なものも存在する。
たとえば、ある営業リーダーがパーパスを果たすことと日々の売上を上げるための活動はまったく矛盾しないと捉えていて、パーパスに基づいた新しい施策をチームに当たり前のように展開したとする。しかし「売上の達成だけが自分の仕事」という世界観で働いているメンバーがいた時に、そのメンバーからは、売上をあげるための活動の時間を削ってパーパスとやらの何かを新しくやらなければならないなんて、リーダーの言っていることは矛盾している、と映るかもしれない。
このようにリーダーからは見えていないが、現場には確かに存在するパラドックスが課題を難しくしていることはよくあることだ。このようなパラドックスを発見するために現場をフィールドワークすることはとても有効である。もちろんリーダーに限らず、リーダーや他部署の方の言動の理解が難しいと感じている組織のすべての人にとって試していただきたい手法だ。
(2)ABCDシステムを活用し、両立の問いを立てる
パラドックスを見出したら、次はABCDシステム[図1]を活用し、両立の問いと向き合うことをお勧めする。以下は問いの例であるが、本書を読み進めると、事例などを通してたくさんの有効な問いが浮かぶことであろう。
【問いの例 】
A −アサンプションの問い
択一思考に陥って拙速な解決に囚われていないか?
両立が必要であるという文脈を社内外のステークホルダーにどう理解してもらうか?
リソースを自分に現在与えられた範囲だけで考えていないか?社内外にすでにあるリソースで活用できるものはないか?
B −バウンダリーの問い
全体がパーパスに立ち戻ることで何らかの行き過ぎを防ぐことはできないか?
パラドックスの両極を適切に分離してそれぞれの動きを促すことはできるか?
分離したパラドックスはどう接続すれば全体として利益が得られるか?
C −コンフォートの問い
ひと呼吸おいて、落ち着いた心持で今の状況を眺めるとどうだろうか
今の状況をそのまま受け入れ、味わいきってみると何が起こるだろうか
より大きな目的や意義とつながると感じ方は変わるだろうか
D −ダイナミクスの問い
新しいアイデアを小さく実験するとしたらどう始められるか
これを新たな変化へのセレンディピティだと捉えるとどうだろうか
これまでの当たり前の中で手放さなければならないものがあるとすれば何だろうか
(3)組織で対話を通じてパラドックスの認識や両立の問いを共有する
先ほどパラドックスには論理的なものと社会構成的なものがあるとお伝えした。社会構成主義とは人間が共有する解釈を通じて現実が創られるという考え方のことで、社会構成主義に基づいた組織への介入手法として対話型の組織開発というものがある。チームでパラドックスに向き合うにあたっては、対話が有効であり、その重要性は本書でも紹介されているレゴ社を題材としたロッテ・ルッシャーと著者のマリアンヌ・ルイスの研究でも示されている 注6。
ここまで、パラドックスを認識し、両立の問いを検討してきたが、ぜひそれを組織で共有するような対話の場を設計いただくとよいだろう。その際には、本書の第8章の最後に示されている両立実践ワークシートや、第9章で紹介されている「SMALLモデル」や「ポラリティマップ」は対話の進め方や問いを設計する際の参考になる。詳しく学ばれたい方は、本書を手に取ってみていただきたい。
(4)パラドックス・マインドセット関連尺度を用いて
組織の状態を見立てながら試行錯誤し、
両立思考を組織の中に根付かせていく
最後は、パラドックス・マインドセット関連尺度の活用について提案したい。パラドックスナビゲーション(両立実践)マトリックス[図2]で示されているように、パラドックス・マインドセットが高く、かつ緊張関係を経験していると、積極的実践(エンゲージング)ゾーンという状態になり、両立思考を実践しやすい状態になるという。
これから組織で両立思考を実践していくということであれば、本書の巻末のパラドックス・マインドセット関連尺度 注7 を活用して、自社の状態を測定しながら、さまざまな啓蒙施策などを行っていくことをお勧めする。
経営学におけるパラドックス研究のこれから
最後に、経営学におけるパラドックス研究のこれからについて触れたい。
メタ理論と表現されるほど適用範囲が非常に広いため、現在は以下のような領域での研究が行われているが、今後もこのパラドックス理論のレンズを通してさまざまな研究に新たな視点が加えられていくことが期待されている。
・リーダーシップ(複数の目的の同時追求)のパラドックス
・両利きの経営(探索と深化)のパラドックス
・社会的企業(事業性と社会性)のパラドックス
・キャリア自律と組織化のパラドックス
・コーペティション(協調と競争)のパラドックス
また監訳者が主催する「パラドキシカル・リーダーシップ産学共同講座」でも以下のような研究に取り組んでいきたいと考えている。共同研究にご興味のある企業があれば是非お気軽にご連絡いただきたい。
最後に
矛盾を両立させようとする両立思考は経営学の中でさえ当初は簡単には受け入れられなかった、本質的だが難しいコンセプトである。本書を読み終わった方でも、すっきりしない気分にさいなまれている方もいらっしゃるかもしれない。
ただあえて、それがよい状態だとお伝えしたい。
すっきりしない事を問いとしてもっておく事、物事を見る時にパラドックスというレンズを通して眺めてみる事、そして本書で紹介しているABCDシステムなどのツールを実践で使ってみて、身体性を伴って理解していく事。それらを通して、ある時に「そういうことか」と腑に落ちる瞬間が訪れると確信している。
とりわけ、本書の枠組みやツールは、経営学の学術的知見に基づいて構築された信頼できるものである。この学問的裏付けのあるツールを実践に使うことで、きっとこれまでと違う顕著な効果が出せることを読者は実感するだろう。
多くの読者にとって本書との出会いが有意義なものになることを願ってやまない。
監訳者一同
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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