新刊『両立思考』の解説全文をご紹介します
2023年11月1日にアルーが監訳に携った『両立思考 「二者択一」の思考を手放し、多様な価値を実現するパラドキシカルリーダーシップ』(JMAM)が発売されました!
『両立思考 「二者択一」の思考を手放し、多様な価値を実現するパラドキシカルリーダーシップ』は、経営思想のアカデミー賞とも呼ばれるThinkers50において、Best New Management Books for 2023にも選出された名著の日本語版です。こちらです。
この記事では、私中村が、京都大学経営管理大学院教授の関口倫紀先生と、アルー株式会社 代表取締役社長の落合文四郎とともに監訳に携らせていただいたことから、本書に掲載している監訳者による解説全文をnoteの形式に合わせて少し変更したうえで、ご紹介させていただきます。
なお、この記事は、前半・後半に分かれています。
●日本語版刊行に寄せて
本書は近年経営学において大変注目を浴びている「パラドックス研究」という領域を牽引するウェンディ・スミス教授とマリアンヌ・ルイス教授の共著である。経営思想のアカデミー賞とも呼ばれるThinkers50において、Best New Management Books for 2023にも選出されている。
原書には、序文を書かれたエイミー・C・エドモンドソン教授(心理的安全性の権威)をはじめ、アダム・グラント教授(『Think Again』著者)、世界的コンサルタントのトム・ピーターズ(『エクセレント・カンパニー』共著者)などの錚々たる面々からの推薦文が寄せられており、その内容の素晴らしさに疑う余地はない。
しかしながら、本書が刊行された2023年秋の時点で、日本の多くの方々には、著者のふたりも、経営学分野における「パラドックス研究」という領域も、ほとんど知られていないというのが実情ではないだろうか。
そこで、この記事では、以下を解説したい。
・「パラドックス」とは何か
・経営学におけるパラドックス研究の歴史の中で、両著者がどのような貢献をしてきたのか
・経営学領域でパラドックスが関心を集めた理由
●パラドックスとは何か?
本書では、パラドックスを「同時に存在し、長時間持続する、矛盾していながらも相互に依存する要素」と定義している。
そもそも、人類がこのパラドックスについて思索をめぐらせてきた歴史は長い。
本書内では 、易経や道教に由来する陰陽太極図が繰り返しモチーフとして引用されている。数千年前に生まれた道家の老荘思想をはじめ、西洋哲学で言えば、古代ギリシアの哲学者たちが考案した論理パラドックス、ヘーゲルの弁証法における正反合、あるいは止揚(アウフヘーベン)の考え方など、パラドックスと向き合う思想は、洋の東西を問わず、同時多発的に生まれ、発展を遂げてきた。
日本でのパラドックスに関する思想について
日本でのパラドックスに関する思想についても少し触れたい。たとえば、剣道や茶道などの稽古の世界には「守破離」という思想がある。型を学習する「守」、型を脱学習する「破」、型を使いながら使わない境地である「離」。
この中で、「離」は型に《はまる》ことと《はまらない》ことの両方が同時に存在するパラドキシカルな状態と言える。注1 これはパラドックスを扱った思想の中でも稽古という身体性を伴ったユニークなものである。
また、京都大学哲学専修を発祥とする京都学派の創始者であり、日本を代表する哲学者である西田幾多郎もパラドックス思想には欠かすことのできないひとりである。西田は仏教をはじめとした東洋の論理は体験の中にあり、言語化されていなかったと指摘し、言語化された西洋の論理を学んだうえで、そのふたつの融合を目指した哲学者であった。注2
この哲学者のあり方自体が、両立思考の体現であると言えるが、その西田は晩年、「絶対矛盾的自己同一」という概念を提唱している。これは、「相矛盾するものが同時に存在していることこそ、この世界の真実の姿である」ということを表した西田哲学の代名詞とも言える概念である。
パラドックス思想に関心が集まる理由は、
現実がパラドキシカルで矛盾に満ちたものであるから
なぜパラドックスにまつわる哲学や理論が、太古より洋の東西を問わず数多く生まれ、人を惹きつけ続けているのだろうか。
その答えがまさに西田の「絶対矛盾的自己同一」に含まれている。そもそも、現実はパラドキシカルで矛盾に満ちたものなのである。ところが、現実を自分に都合よく利用しようと考える人間(とりわけ、近代人)は、そうした現実に対して不安や違和感といった負の感情を抱いてしまう。それが人間の悩みの本質である。だからこそ、その苦しみへの答えを探して、さまざまな哲学や宗教がパラドックスという難題に挑んできたと言えるのではないだろうか。
●経営学におけるパラドックス研究の歴史
経営学にパラドックスが登場してきたのは1970年代ごろからである。チャールズ・ペロー、ロバート・クインとキム・キャメロン、マーシャル・スコット・プールとアンドリュー・ヴァン・デ・ヴェンなど数々の影響力のある経営学者が組織論の文脈でパラドックスを探求し、多くの論文が発表された。
テーマは組織変革や効果的な組織運営であり、基本的な主張は「競合する要求の中から選択することで、短期的な業績は向上するかもしれないが、長期的な持続可能性を高めるためには、複数の多様な要求を満たすための継続的な努力が必要」というもので、今のパラドックス研究とも通じる魅力的なメッセージであった。
しばらくパラドックス研究が発展しなかった理由
しかし残念ながら、そこからしばらく研究分野としては沈黙が続いた。研究がなかなか発展しなかった理由は三点ほど挙げられる。
(1)パラドックス概念の定義が曖昧だった
この時期までの論文では、パラドックス、ジレンマ、コンフリクトなど、似たような概念を表す言葉が複数あり、しかも論文によって使い方がバラバラであった。そのため論文が複数あっても研究として積み上がらず、分野としての深まりは限定的であった。
(2)実務で使える統合的で実践的な枠組みが存在しなかった
パラドックスのアイデアは魅力的で、啓発的ではあるものの、実務家が使える実践的な枠組みに落とし込まれていなかったため、実践が進まず研究としても深まらなかったと考えられる。
(3)「ひとつの正解」を求める、「択一思考」が
経営学のメインストリームだった
組織論で言えば、アンリ・ファヨールの管理過程論やフレドリック・テイラーの科学的管理法を源流とするものが研究のメインストリームであった。当時は、「成功するためにはたったひとつのベストな方法が存在する」という前提で研究を進めるという世界観であった。
しかしそれは時代の必然とも言えた。なぜなら当時はいわゆる工業化社会であり、価値を生み出す主役はモノであり、マネジメントの成否を分けるのは製品としてのモノを安く大量に作るための経営資源(ヒト、モノ、カネ)の効率的なやりくりであった。
「択一思考」は時代の要請であった
わかりやすく言い換えるために極論をいうと、資源を最も効率的に活用出来ている「正解」の状態に近づけるのが経営とも言えた。人や組織はモノの動きに従属する存在であり、人に正解の行動をさせるためのルールや手順、指揮命令系統を定め、あたかも人や組織を機械に見立てて正しく動かすような経営の考え方が主流であった。
そういった環境であれば、複数の選択肢の中から正解を選び出す「択一思考」の視点を提供することが経営学の役割であるのはごく自然であった。
その後、状況によって正解が異なると考える「コンティンジェンシー理論」などへの発展はあったが、「ひとつの正解」を提示するという世界観には変わりはなかった。
社会の変化が重なり、パラドックス研究に注目が集まる
しかし、そこに幾つかの社会変化が重なり、世界観に変化が生じることになる。
(1)ポスト工業化社会(知識社会、デジタル社会)への産業構造の変化
経済発展が進んだ国ではモノが溢れ始め、価値の中心がモノからコト(体験)へ移行した。コトの価値の創出には、それに関わる人の意欲やクリエイティビティを高めることが重要である。結果として、マネジメント手法もルールや手順で人々の行動を縛る方法論から、人々の自律性を重視し、人を内発的に動機づけるような方法が重視されるようになっていった。
(2)ダイバーシティを尊重する社会的な風潮の変化
発端は差別の解消、人権の尊重という文脈から始まったダイバーシティの運動であったが、昨今ではイノベーションの源泉という意味付けでも語られるようにもなってきた。この社会の変化により、ひとつの価値観で組織を染め上げるのではなく、さまざまな価値観を同居させつつも一体感を醸成するような組織づくりが重要になってきた。
モノによる縛り、ルールや手順による縛りを廃して人々に発想や行動の自由を与えれば与えるほど、先ほど指摘したような人間の悩みの本質でもあるパラドキシカルで矛盾に満ちた現実に直面することになる。またダイバーシティをめぐる多様性を保ったまま一体感を醸成するという問いは、その問い自体が極めてパラドキシカルである。
択一思考に基づくアプローチだけでは、
経営課題に応えることが難しくなった
こうなると、これまでの経営学の択一思考に基づくアプローチだけでは経営現場の課題に応えることが難しくなってくる。そこに登場したのがパラドックス研究である。
選択肢をただ評価して優劣をつけるのではなく、その背後にあるパラドックスに注目し、その相互依存性や持続性を受け入れた上でそれらを両立させるクリエイティブな方法を探求する。その両立思考に基づいたパラドックス研究のアプローチが、これまでの経営学の限界を超える突破口になるのではないかと注目を浴びた。
しかし、それまでの択一思考の経営学のメインストリームはそんなに簡単には変わらない。パラドックスの研究者は周囲から奇異な目で見られたり、「そんな研究に意味があるのか」と問われたりすることも少なくなかった。
本書の著者のふたりの貢献により、
パラドックス研究に大きな注目が集まる
そんな中、パラドックス研究が大きな注目を集め、経営学の主要な分野として確立されていく流れを作り出したのが本書の著者のふたりである。
ふたりも上記の流れの例外ではなく、その頃の苦労を回顧録で書いているが、『両利きの経営』の著者のひとりであるマイケル・タッシュマンから「大きなアイデアに人々が尻込みするということは、それを追究することが重要であることを意味している」と勇気づけられ、研究にいそしんだ。
その過程で書き上げられた、2000年のマリアンヌ・ルイス教授の『Exploring Paradox: Toward a More Comprehensive Guide』(その年のAMR最優秀論文賞を受賞)と、2011年の、両著者による『Toward a theory of paradox: A dynamic equilibrium model of organizing』、特にこのふたつの論文が経営学の世界に大きなインパクトを与えた。
これらの論文の一体何がエポックメイキングだったのかというと、先ほどのパラドックス研究が発展しない理由の三点に見事に応え、パラドックス研究をメインストリームのひとつに押し上げたという功績に他ならない。2000年の論文で現在の概念の原型がすでに示されており、2011年の共著論文は以下のような内容が示されていた。
著者のふたりはこの論文で、組織の望ましいあり方を静的で固定的な構造として捉えるのではなく、動的で生成変化するプロセスとして捉えるモデルを示した。本書の中でも「綱渡り」や「一貫した非一貫性」といったような表現を用いて動的平衡によるパラドックス・マネジメントの考え方を分かりやすく説明している。
経営学に両立思考へのパラダイムシフトが起こり始めている
これらの論文が、世界的なトップジャーナルのひとつである『Academy of Management Review』に掲載されると、瞬く間に数多く引用がなされ、まさに経営学の世界での択一思考から両立思考へのパラダイムシフトが起こり始めた。
2011年の共著論文は、ジャーナル掲載の10年後の2021年、10年間で最も影響力のあった論文に送られる「AMR DECADE AWARD(AMR10年賞)」を受賞した。また当論文は現在までに4000件を超える驚異的な被引用数を誇っている。
さらに2015年にYan Zhangを中心とする研究チームがパラドキシカルなリーダーの行動を測定する尺度 注4を、2019年にエラ・マイロン=スペクターや著者らの研究チームがパラドックス・マインドセット関連尺度 注5を発表すると、パラドックス研究がさらに加速した。パラドックス研究は現在の経営学の中では一大勢力となって研究の量産体制に入り、現在も日々新しい知見が生み出されている。
ここまで見てきたようにパラドックス研究は経営学のメインストリームのひとつになりつつある。日本で一大ブームを巻き起こした「両利きの経営」もパラドックス研究のひとつだと解釈することが可能であり、徐々にこの分野への関心と評価は高まりつつある。
この記事は後編もあります!こちらからご覧ください。
・日本企業の課題感から見える両立思考の意義
・ビジネスの現場における、実践のポイントや注意点
・経営学におけるパラドックス研究のこれから
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。