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「AI親友論」から考える個人と組織の未来 ~「わたし」から「われわれ」へのシフト~

ChatGPTなど、生成系AIの急速な発達によって、AIが人間の知能を越えるシンギュラリティの到来が現実味を帯びてきました。これまで人類が体験したことのない時代を生きる上で、私たちはAIとどのように向き合っていくべきなのでしょうか?

人間とAIの共存に注目が集まる中、「AI親友論」という書籍が刊行されました。著者は、日本の哲学界をリードする京都大学文学研究科哲学専修の出口康夫教授。すべての主体を「わたし」ではなく「われわれ」から考えるというWEターンやSelf as Weと言った独自の理論をベースにAIと人間のあるべき関係について新しい視点を提案する出口教授に、アルー株式会社のエグゼクティブコンサルタントで京都大学経営管理大学院客員准教授の中村俊介が、これからの時代の個人や組織のあり方についてお話をうかがいました。

本記事は8月に開催したセミナー「『AI 親友論』から考える個人、組織、リーダーのあり方とは」の内容を編集したものです。是非、こちらの記事も合わせてご覧ください。


この記事は、特にこのような方におすすめです。
●AIと人間の共存に興味がある
●これからの人と組織のあり方について捉えなおしてみたい
●京都大学哲学専修の最近の取り組みに興味がある

プロフィール

出口康夫
京都大学大学院文学研究科哲学専修 教授
二“人”の犬と共に京都に暮らす哲学者。京都大学大学院文学研究科哲学専修教授。京都哲学研究所代表理事。京都大学文学部卒、同大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は数理哲学、分析アジア哲学。近年「われわれとしての自己(Self-as-WE)」をキーワードに思索を展開している。近著に『AI 親友論』(徳間書店)など。

▼『AI 親友論』(徳間書店)の詳細


中村俊介 
アルー株式会社 エグゼクティブコンサルタント
京都大学経営管理大学院 客員准教授
東京大学文学部社会心理学専修課程卒。大手損害保険会社を経て、創業初期のアルー株式会社に入社。営業マネージャー、納品責任者、インド現地法人代表などを歴任。現在はエグゼクティブコンサルタントとして企業のリーダー育成を手掛けるほか、京都大学経営管理大学院「パラドキシカル・リーダーシップ産学共同講座」の客員准教授を務める。


「AI親友論」 AIと人間、人間と人間のあるべき関係を考える

中村 俊介 (以下、中村)  今回は、今年7月に刊行された「AI親友論」が話題の京都大学大学院文学研究科哲学専修の出口康夫教授に、これからの時代のAIと人間の関係、そしてその先に見えてくる、個人や組織のあり方についてお話をうかがいたいと思います。

出口先生とのご縁はアル―が京都大学と共同で運営している京大MBAパラドキシカル・リーダーシップ産学共同講座がきっかけとなっています。本講座では、「利益だけではなくサステナビリティも追求したい」など大事なことが2つ以上ある複雑化した世界の中で、相対立・矛盾するが関連している要素を同時追及するようなリーダーシップのあり方の探求に取り組んでいます。実は、この中の鍵となる概念「パラドックス」は東洋思想からの影響を強く受けています。そこで、西洋近代的なものの見方のオルタナティブを提案するという立場から日本の哲学界をリードしてきた京都大学哲学専修のみなさんと一緒に研究を発展させていきたいというお話を出口先生にご提案したところ、共同の取り組みがスタートしました。

出口先生、本日は改めて、よろしくお願い致します。まずは、哲学の専門家である先生が、AIと人間の関係を題材にした本「AI親友論」を刊行された経緯と、著書で扱われているテーマの概要について教えていただけますでしょうか。

出口 康夫氏 (以下、出口 敬称略) よろしくお願い致します。今回刊行した本「AI親友論」は、AIの専門家でも技術者でもなく、哲学者である私の視点から、 「AIと人間のあるべき関係」を問う内容となっています。 AIと人間の関係を考える上で一番重要なのは「人間とは何か?」という問いです。「人間とは何か?」を考えるためには、人間とそうでないもの、 例えば人間と人間がつくった人工物、AIやロボット、コンピューターなどの様々な道具との関係を考える必要があります。その一環として、AIと人間のあるべき関係を考えていこうというのがこの本のテーマです。

中村 なるほど。昨今、ChatGPTなど、生成系AIをはじめとするAI技術が急速に発達して社会に広く普及する中、AIについての議論が盛り上がっていますが、AIと人間の関係について考えることは、「人間とは何か?」を考えることであるという視点は大変興味深いです。

出口 そうなんです。AI論のように銘打っておりますが、影の主人公は人間であるという視点で書かれている本です。この本の表のテーマは「AIと人間のあるべき関係」ですが、裏テーマとして「人間と人間のあるべき関係」について考える内容となっています。

中村 そのあたりの問題意識が後々の個人や組織のお話に繋がっていくわけですね。今回の著書は哲学者が書いたAI論という点が一番の特徴だと思うのですが、哲学の視点から「AIと人間の関係」についてどのように考えることができるのでしょうか?

出口 私は哲学とは「価値を提案する学問である」と考えています。今回の「AIと人間の関係」というテーマでは、現在AIと人間がどういう関係にあるか、これからどういう関係になるのかという事実の確認や未来の予想を踏まえながら、そこに留まらずに、「あるべき関係とは何か?」という問題について考えることに取り組んでいます。「あるべき関係を問う」ということは、単に事実を説明したり予測したりするのではなく、「事実」に基づいて新たな「価値」を提案する試みです。

中村 なるほど。哲学の視点から「AIと人間のあるべき関係」を考え、世の中に新たな「価値」を提案するというのが著書「AI親友論」を通しての出口先生の狙いであると。続いて是非、「AI親友論」の具体的な内容についてうかがっていきたいと思います。

ポイント
・「AI親友論」は、生成系AIをはじめとする、AI技術が急速に発達して社会に広く普及する中、哲学者の視点から、「AIと人間のあるべき関係」を問う内容となっている
・「AIと人間のあるべき関係」を考えるためには、まず「人間とは何か?」について考える必要がある
・哲学は、「価値を提案する学問である」と考えている。単に事実を説明したり予測したりするのではなく、「事実」に基づいて新たな「価値」を提案する試みをしている

AIのせいで「人間失業」?

出口 今回はAIと人間の関係を考える上で重要な2つの問題についてお話したいと思います。一つは「人間失業」です。これは私がつくった言葉なのですが、AIなどの技術の発達によって、人間が単に職を失ってしまうだけでなく、人間としての尊厳や「かけがえのなさ」を失ってしまうという事態を表しています。個々の職業が無くなるのではなく、人間そのものが失業してしまうという考えです。私は、この問題に対峙するためには人間観そのものを変える必要があるのはないかと考えています。

もう一つは「主人-奴隷モデル」という考えです。昨今のヨーロッパでは人間とロボットはどうような関係であるべきか?ということについて、 活発な議論がなされていますが、その中で、「主人-奴隷モデル」という考えが提案されています。簡単に説明すると、人間は主人=マスター、AIは奴隷=スレイブであるべきだ。それこそが、人間とAIのあるべき姿だという考えです。これに対して、私は批判的な考えを持っています。

「人間失業」と「主人-奴隷モデル」共に現在世界のデファクト・スタンダードとなっている西洋近代的な人間観が背景にあるのですが、そこに対して、私が哲学者として研究しているSelf as WeやWEターンという立場からオルタナティブな視点を提案していけたらと考えています。

中村 AIと人間のあるべき関係を考えるためには、私たちが普段当たり前のものとして認識している西洋近代的な価値観、人間観とは異なる視点が重要になってくると。「人間失業」というのは中々ショッキングな言葉ですが、こちらの内容について詳しく教えてください。

出口 数年前からAIの発達によって人間の職が奪われてしまうという議論が活発になっています。 AIが人間の能力を越えるシンギュラリティ=技術的特異点の負の結果として、大量の失業が起こるといった予測が世間を騒がせています。実際に、シンギュラリティが本当に起こるかどうかについては、様々な意見があります。ここでは実際に起こるかどうかは分からないものとして、そういった可能性について深刻に捉えて考えてみたいと思います。
ちょうど1年くらい前からChatGPTをはじめとした生成系AIが爆発的な勢いで社会に浸透してくる事態を受けて、シンギュラリティの到来はより現実味を増したかたちで議論が再燃しているように思います。

中村 私も、ChatGPTを実際に使ってみる中で、驚きと共にこの仕事やあの仕事は近い将来AIに置き換わってしまうのではないかと危機感を覚えていました。

出口 数年前イギリスの新聞の記事に掲載されたAIの台頭によって、将来なくなってしまう職業のリストが話題になりましたが、意外と上位に哲学の教師があって、あらまあと思ったことがありました(笑)
今回お話したい「人間失業」は、そうした個々の職業がAIに置き換わって大量の失業が起こるという話とは次元が違う、より深刻で、我々の実存に関わる問題として、人間の尊厳、「かけがえのなさ」が失われてしまうという事態を指しています。

中村 「人間失業」とは、つまり人間が人間であることのアイデンティティーを失ってしまうということでしょうか?

出口 そうですね。人間の能力、機能はすべて有限、有界なものであると言えます。その能力、機能を越える人工物を発明することで、我々の生活はどんどん便利になってきました。例えば、我々には走る能力がありますが、たかが知れています。そうした我々の走る能力を越える人工物、自転車や自動車や新幹線をつくることで速く移動することを可能にしてきました。このようなあるものの能力を越えるものを「凌駕機能体」と呼んでいます。

新幹線の登場によって、我々の尊厳やかけがえのなさは全く傷つかなかったわけですが、それは人間には、他の生物や人工物に対してこれだけは負けない能力を持っているという自負があるからだと言えます。そこが守られていたら、他が少々追い抜かされても大丈夫というわけです。

そういった我々の尊厳やかけがえのなさの最後の拠りどころとは何か。人によって考えが異なるかもしれませんが、共通の認識としては、人間の知的能力であると言えます。知性や理性、思考能力などの知的能力が人間にとって唯一無二のものである限り、人間の尊厳やかけがえのなさは守られると考えられてきました。ところが、AIの登場によって、人間の尊厳やかけがえのなさの最後の砦である知的能力が人工物によって凌駕される可能性がでてきたというわけです。

中村 なるほど。つまり、シンギュラリティとは、人間の尊厳やかけがえのなさの最後の砦である知的能力がAIという人工物によって凌駕されてしまうということで、そのことによって、人間がかけがえのなさや尊厳を失ってしまう状態を先生は「人間失業」と呼んでいるわけですね。

出口 その通りです。これが、シンギュラリティという言葉を通して漠然と感じられていた不安の正体ではないかと思います。そしてこの不安が、生成AIの登場によって徐々に現実味を増しているというのが去年から今年にかけての事態ではないかと考えています。
私は、こうした「人間失業」の背景には「機能主義的な人間観」があるのではないかと考えています。これは、西洋の古代から、中世、近世、現代まで続く歴史の中で世界中に広がっていった今のデファクト・スタンダードになっているような人間観であると言えます。

中村 「機能主義的な人間観」とは具体的にどのような考えなのでしょうか?

出口 「機能主義的人間観」とは人間を様々な能力や機能の集まる束だとみなす考え方です。この機能には様々なものがあります。知的能力やコミュニケーション能力、身体能力など様々な能力、つまり「できること」に人間の価値を見出すという人間観です。先ほどお話したようにすべての人間のできることは有限・有界なので、常にそれを越える凌駕機能体が出てきます。そして、今起こっているのは、知的能力を凌駕するものが出てきたらどうするかという問題です。私は、人間をこのように「できること」の束と捉えている限りは、「人間失業」は原理的に起こりうると考えています。遅かれ早かれ起こってしまう、避けがたい、不可避の事態だと考えています。

中村 「機能主義的人間観」に囚われている限りは「人間失業」は不可避であると。では、我々が「人間失業」を避けるためにはどうしたらよいのでしょうか?

ポイント
・AIの発達は、人間の尊厳、「かけがえのなさ」を失わせる「人間失業」を引き起こす可能性がある
・人間失業の背景には、人間を能力、機能の束とみなして人間の価値を「できること」におく機能主義的人間観がある 


「わたし」は一人では何もできない 「できるもの」から「できないもの」へ


出口 「人間失業」を避けるためには人間観そのものを根本的にひっくり返さないといけないと考えています。その際に、出発点となるのが「わたしは一人では何もできない」という考えです。人間は一人で何もできない。こうした事態を「単独行為不可能性」として、私は「できなさ」テーゼと呼んでいます。

中村 「単独行為不可能性」と「できなさ」テーゼ。また、興味深い概念が出てきました。詳しく教えてください。

出口 よくお話する例として、自転車に乗るという行為を題材に考えてみましょう。「私が自転車に乗る」という行為が順調に遂行されるためには、私をとりまく様々な要素が機能している必要があります。まず、誰かが自転車を発明して、自転車屋で売っていないと自転車を入手できない。舗装された道路がないと走ることはできない。もっと細かい視点で考えると、適切な酸素濃度や空気圧、重力がなければ自転車に乗るという行為は成立しません。

そう考えると、一見一人でできるように思える自転車に乗るという行為が、人間や人間以外の生物や様々な人工物、社会システムなどによって支えられて成り立っていることが分かります。こうした行為の成立を支える様々な要素をエージェントと呼んでいます。

中村 私たちのあらゆる行為は様々なエージェントに支えられて成立している。だから、私たちは、一人では何もできないということでしょうか。

出口 そういうことです。言い換えると、自転車に乗るという行為を可能にしている主体は「わたし」ではなく、様々なエージェントが合わさったシステムであると言うことができます。そうしたシステム全体を私は、「われわれ」=マルチエージェントシステムと呼んでいます。

中村 主体を「わたし」ではなく「われわれ」に置くことで、物事の見え方はどのように変わるのでしょうか?

出口 私が主張しているのは根源的な「できなさ」から人間を考えてみようという提案です。「できなさ」というとネガティブな響きがありますが、一人では何もできないということは、逆に考えると、「わたし」が生きて行為をしているということは同時にまわりに「われわれ」=マルチエージェントシステムが成り立っていて、「わたし」は常に「われわれ」の一員として「われわれ」に支えられているというポジティブな意味を持っていると言えます。
つまり、人間が根源的に抱える「できなさ」にこそ「かけがえのなさ」があるのです。 人間の本質を「できること」から「できなさ」へ、「ケイパビリティ」から「インケイパビリティ」へとシフトさせて考える「人間失業」を回避できるのではないかと考えています。

中村 なるほど。確かにそのように考えると、「人間失業」の捉え方が変わってきそうです。

出口 さらに詳しく説明をします。「わたし」が生きて行為をしている際に、「わたし」のまわりには必ず「われわれ」が存在しています。同時に「わたし」がいなければそもそも「われわれ」は成立しません。「わたし」は一人では何もできないからこそ、「わたし」のまわりには「われわれ」が成立していて、その「われわれ」の中で「わたし」はかけがえのない存在になっています。

中村 すべての「わたし」のまわりには「われわれ」があって、その「われわれ」にとって、「わたし」は絶対になくてはならない、かけがえのない存在であると。

出口 そういうことです。そのかけがえのなさというのは「わたし」がどのような人間であろうと決して失われることがないものです。例えば、「わたし」が天涯孤独の境遇や、身体が動かない状態だったとしても「わたし」が生きて行為をしている限り、「われわれ」が成立して、「わたし」がかけがえのないものとして存在しているという状態が失われることはありません。そういった意味で「わたし」をかけがえのないものとする「われわれ」を持たない人間はいないと言えます。このような考えの元では、「人間失業」は起こらないのではないかと思います。よって、「人間失業」を回避するためには、人間観を「できるもの」から「できないもの」へと転換する必要があるのではないかと考えています。

ポイント
・「わたし(I)」は決して単独では行為できない。常に根源的な「できなさ」を「われわれ(WE)」に支えられている
・人間の尊厳、「かけがえのなさ」を「できなさ」に求めると、AIがどれほど、人間の能力を凌駕しようと、人間失業は起こらない

WEターン 「わたし」から「われわれ」への視点のシフト


出口 こうした考えの転換を私は「WEターン」と呼んでいます。 先ほど上げた例は、行為のWEターンというものです。 例えば、自転車に乗る、息をする、手を上げるなどすべての身体行為の主体を「わたし=I」ではなく、「われわれ=WE」にシフトして考えるというのが行為のWEターンです。同じような構造を様々な領域で考えることができます。著書「AI親友論」では、その他、自己のWEターン、人生のWEターン、ウェルビーイングのWEターン、責任のWEターン、権利のWEターンなどについて言及しています。

中村 「WEターン」の概念には大きな可能性を感じるのですが、我々はこの考えを実際にどのようにして仕事や生活、社会に取り入れていくとよいのでしょうか?

出口 様々な領域でWEターンについて考えることができるわけですが、物事の主体をIからWEに転換したとして、それだけで社会が良くなるわけでも、わたしが幸せになるわけでもありません。世の中には良い人もいれば、悪い人もいるというように、わたしを支える「われわれ」にも、良い「われわれ」もいれば、悪い「われわれ」もいます。したがって、WEターンという視点の転換をすると共に、どうやって「われわれ」をよりよいものにしていくかを考えるということが重要になってきます。

中村 なるほど。良い「われわれ」と悪い「われわれ」とはどのようにして見極めることができるのでしょうか?

出口 良い「われわれ」について考えるためには、まずは、悪い「われわれ」と何かを考える必要があります。人によって様々な考えがあると思いますが、多くの人が共有している考えとして、全体主義的な「われわれ」は悪い「われわれ」であると言えます。

中村 全体主義的な「われわれ」ですか。例えばどのような特徴を持っているのでしょうか?

出口 特徴の一つとして、排外主義が挙げられると思います。人を内と外に分けて、身内に対してはえこひいきをして、他者に対しては酷い態度をとるというような性質です。もう一つの特徴としては内部に過剰な同調圧力があるということが考えられます。つまり、私たちは、外に対して排外主義的でなく、内に対して抑圧主義的ではない「われわれ」をつくっていく必要があるのです。

中村 人間観の転換から、良い「われわれ」をつくっていくというところまで、非常に刺激的なご提案だと思うのですが、一方で、社会全体で取り組みを進めていくためには、中々ハードルが高いような気もします。社会全体という視点では、具体的にまずは、何から取り組んでいくと良いのでしょうか?

出口 非常に難しい問いです。簡単にお答えできることではないのですが、私がお話をしているひとつの可能性は教育です。私たちのデファクト・スタンダードとなっている西洋近代的価値観は、日本では明治維新の頃に伝わって、それが教育のシステムに入っていく中で、100年くらいかけて根付いてきたという歴史があります。
この西洋近代的価値観に基づいた教育観は、私からみると「できること」に重きが置かれていて、バイアスがかかったものであると思っています。そこを変えるためには、初等教育の段階から、ひとつの価値観で染め上げるのではなく、「できること」を重視する教育がある一方で、「できなさ」を重視する教育のあり方を認めていく。そうすることで、時間はかかるかもしれませんが、WEターンのような人間観が広がる可能性があるのではないかと思っています。

中村 なるほど。改めて教育の重要性と時間をかけて取り組んでいくという姿勢が大切であることを感じました。ありがとうございます。

ポイント
・私たちは、主体、ユニットを「わたし」から「われわれ」へシフトした上で、よい「われわれ」を探求していくことが重要となる
・よい「われわれ」を考えるためには、まず悪い「われわれ」について考える必要がある。悪い「われわれ」とは、全体主義的、抑圧主義的な「われわれ」であると言うことができる。つまり、全体主義的、抑圧主義的でない「われわれ」を探求することが、良い「われわれ」をつくっていくことに繋がる

本記事では、8月に開催したセミナーの内容を元に、AIの発達によって、到来する可能性のある「人間失業」から、それを回避するための人間観の転換、「わたし」から「われわれ」へというWEターンの思想と、その考えをどのように社会に活用していけばよいかというお話についてまとめました。

人間とAIの関係において「主人-奴隷モデル」が世の中のデファクト・スタンダードとなりつつある中、その対案として、出口先生が提唱されている「共冒険者モデル」をキーワードに、組織、リーダーシップのあり方について深掘りをしたこちらの記事についても是非合わせてご覧ください。

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